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やはり他の旅客機と同様、-100型で生産がスタートしたYS-11。現在日本の空で活躍するYS-11は、全て-200型以降のシリーズで、-100型はフィリピンで一部活躍している他は運航されていない。(写真:日本エアシステム YS-11-100、JA8665、1990年大阪国際空港)。 |
第二次世界大戦の敗戦により、アメリカは日本の航空機産業を全て禁止した。しかし、第二次世界大戦で使用された戦闘機は、航空先進国のアメリカですら舌を巻くほどの技術が用いられていた。その技術を支えていたのが、木村秀政、土井武夫、堀越二郎、太田稔、菊原静男の、「5人の侍」と呼ばれた技術者たちであった。しかし、航空機産業を禁止された日本では、こうした技術者も全く宝の持ち腐れ状態になっていた。 しかし、1952年に航空機の開発、生産禁止が解除されたが、その7年の間に、日本の航空産業の技術力は立ち遅れていた。1955年、運輸省の赤澤章(正確にはさんずいに「章」)一により、国産機生産計画が打ち立てられ、航空機生産に関係したメーカーからの協力を取り付けていた。このプロジェクトは1957年に正式に立ち上がり、国産旅客機の生産が始まることになる。 しかし、当時日本では、新幹線の開発が最優先項目になっており、ついた予算は要求額の半分以下で、YS-11開発への道程は相当厳しく、険しいものだったようだ。本格的に予算がつくのかどうかも分からず、プロジェクトは立ち上がることになる。 |
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このモックアップ作戦は成功し、予算を取ることに成功する。ここで土井らのベテランは引退を宣言し、その後を三菱重工の東條輝雄が引き継ぐことになるが、自身がアメリカとの技術格差をよく分かっていただけに、相当戸惑ったようだ。1959年に、YS-11の生産会社である日本航空機製造が設立され、1960年の年末、全ての設計図が完成し、いよいよYS-11試作機の組み立てが始まることになった。 生産は名古屋空港脇の三菱重工小牧製作所で行われた。1961年6月から生産が始まり、生産と同時に耐久試験などが行われていた。この耐久試験が、YS-11が40年以上、日本の空で活躍できる理由になったひとつであるのだが、アメリカのボーイング社などの基準値の3倍の耐久性試験をすることとなった。通常、約20年と言われる旅客機の耐久性だが、YS-11の場合は60年、そして今、現役で飛んでいるYS-11は、1960年代後半から1970年代前半に生産された機体である。つまり、まだ30年は余裕で飛ぶことができる、と言う訳である。 |
全日空はYS-11を大量発注し、初のライン就航エアラインとなった。1964年に東京オリンピックの聖火輸送に使用したことから、YS-11に「オリンピア」という愛称をつけ、退役までこの愛称で時刻表も含めて表示されていた。(写真:全日空、YS-11-213、JA8769、1990年、大阪国際空港) |
日本では全日空、東亜航空、日本国内航空が購入を決定し、当時米国領であった沖縄の南西航空も導入を決めた。日本のエアライン以外での販売は少ないが、それでも半数が輸出されることになる。(写真:日本エアシステム、YS-11A-500、JA8792、1990年、大阪国際空港) |
この改善のために、テストフライトを続けることになるYS-11だが、残念ながら相当酷い状態であったようだ。若手を中心とした開発メンバーではその改善のアイデアを出すことは無理であった。東條輝雄は、三菱重工から再び日本航空機製造へと戻ることを決断する。 結果的に、土井武夫による翼の構造を変えるアイデアにより、翼の上反角を引き上げることで、横滑りの原因を解決させる。そして、方向舵の問題は、若手が専門誌から見つけてきたスプリングタブを取り付けることで解決させた。そして、YS-11は、改めてアメリカ連邦航空局の審査を受けることになる。 |