YS-11の歴史 <前編>


YS-11の登場は、今をさかのぼること40年以上、1962年である。初の営業飛行が1965年と記録されているので、実に日本の空で38年も活躍したことになる。そして、完全に引退する予定が2006年。つまり41年間日本の空で活躍したことになる。これだけ息長く飛びつづけた飛行機は少なく、生産機数が180機あまりの小規模生産からは考えつかないような世界である。このYS-11誕生には、さまざまなドラマがある。BR>

やはり他の旅客機と同様、-100型で生産がスタートしたYS-11。現在日本の空で活躍するYS-11は、全て-200型以降のシリーズで、-100型はフィリピンで一部活躍している他は運航されていない。(写真:日本エアシステム YS-11-100、JA8665、1990年大阪国際空港)。

第二次世界大戦の敗戦により、アメリカは日本の航空機産業を全て禁止した。しかし、第二次世界大戦で使用された戦闘機は、航空先進国のアメリカですら舌を巻くほどの技術が用いられていた。その技術を支えていたのが、木村秀政、土井武夫、堀越二郎、太田稔、菊原静男の、「5人の侍」と呼ばれた技術者たちであった。しかし、航空機産業を禁止された日本では、こうした技術者も全く宝の持ち腐れ状態になっていた。
しかし、1952年に航空機の開発、生産禁止が解除されたが、その7年の間に、日本の航空産業の技術力は立ち遅れていた。1955年、運輸省の赤澤章(正確にはさんずいに「章」)一により、国産機生産計画が打ち立てられ、航空機生産に関係したメーカーからの協力を取り付けていた。このプロジェクトは1957年に正式に立ち上がり、国産旅客機の生産が始まることになる。
しかし、当時日本では、新幹線の開発が最優先項目になっており、ついた予算は要求額の半分以下で、YS-11開発への道程は相当厳しく、険しいものだったようだ。本格的に予算がつくのかどうかも分からず、プロジェクトは立ち上がることになる。
 

5人の侍はベテランの、それも有数の技術者だったのに対し、各メーカーから送り込まれた技術者は。ほとんどが経験の浅い、若手技術者であった。土井武夫は、「大将と二等兵だけで戦争をやるようなものだ」と当時若手技術者に語ったという。
基本設計は、土井武夫らのベテラン5人が設計を担当、1958年にはほぼ基本設計が完成する。しかし、試作機を作るための予算、3億円がつくかどうかは分からず、新幹線への予算で政治家は頭が一杯であったのだ。土井はそこでモックアップを作ることを思い立ち、1957年度の予算の残りを全額使い、横浜の日本飛行機の格納庫でYS-11の基本設計どおりのモックアップを作って、一般公開を行っている。

このモックアップ作戦は成功し、予算を取ることに成功する。ここで土井らのベテランは引退を宣言し、その後を三菱重工の東條輝雄が引き継ぐことになるが、自身がアメリカとの技術格差をよく分かっていただけに、相当戸惑ったようだ。1959年に、YS-11の生産会社である日本航空機製造が設立され、1960年の年末、全ての設計図が完成し、いよいよYS-11試作機の組み立てが始まることになった。
生産は名古屋空港脇の三菱重工小牧製作所で行われた。1961年6月から生産が始まり、生産と同時に耐久試験などが行われていた。この耐久試験が、YS-11が40年以上、日本の空で活躍できる理由になったひとつであるのだが、アメリカのボーイング社などの基準値の3倍の耐久性試験をすることとなった。通常、約20年と言われる旅客機の耐久性だが、YS-11の場合は60年、そして今、現役で飛んでいるYS-11は、1960年代後半から1970年代前半に生産された機体である。つまり、まだ30年は余裕で飛ぶことができる、と言う訳である。

全日空はYS-11を大量発注し、初のライン就航エアラインとなった。1964年に東京オリンピックの聖火輸送に使用したことから、YS-11に「オリンピア」という愛称をつけ、退役までこの愛称で時刻表も含めて表示されていた。(写真:全日空、YS-11-213、JA8769、1990年、大阪国際空港)

 

1962年夏には、ほぼ機体の全体が完成し、8月30日に初飛行を迎えることになる。エアーニッポンからの引退がその41年後であることは、誰一人として予想しなかったことであろう。初飛行は早朝から行われる予定であったが、霧が出たことで若干遅れたものの、午前7時14分、名古屋空港から離陸し、1時間ほどの初フライトを行った。YS-11は、実は名古屋生まれだったのである。初飛行を終えたところで、東條輝雄は三菱重工へ戻り、後輩の島文雄が後を引き継いでいる。
しかし、YS-11にはその後危機が訪れる。翌1963年、アメリカ連邦航空局の審査を受け、2点の飛行特性に問題があることを指摘されたのである。横方向の安定性が悪いこと、方向舵のペダルが重いことの2点で、もしこの改善が行われない場合、アメリカでの旅客機認定はしてもらえない、ということになったのである。輸出することを考えていたYS-11としては、大きな痛手となる。

日本では全日空、東亜航空、日本国内航空が購入を決定し、当時米国領であった沖縄の南西航空も導入を決めた。日本のエアライン以外での販売は少ないが、それでも半数が輸出されることになる。(写真:日本エアシステム、YS-11A-500、JA8792、1990年、大阪国際空港)

この改善のために、テストフライトを続けることになるYS-11だが、残念ながら相当酷い状態であったようだ。若手を中心とした開発メンバーではその改善のアイデアを出すことは無理であった。東條輝雄は、三菱重工から再び日本航空機製造へと戻ることを決断する。
結果的に、土井武夫による翼の構造を変えるアイデアにより、翼の上反角を引き上げることで、横滑りの原因を解決させる。そして、方向舵の問題は、若手が専門誌から見つけてきたスプリングタブを取り付けることで解決させた。そして、YS-11は、改めてアメリカ連邦航空局の審査を受けることになる。
 

1964年、FAAによる再試験に見事合格したYS-11は、量産が開始になる。そして同年8月には、運輸省の国内線就航の認可を受け、9月には聖火輸送に全日空のYS-11によって運ばれた。1965年4月1日、国内線への就航を果たしたYS-11は、国内線での活躍を始めることになったのである。


参考資料:
NHK プロジェクトX「翼はよみがえった」前編・後編
コミック版プロジェクトX 挑戦者たち 翼はよみがえった 宙出版




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