YS-11の歴史 後編


国内線へのライン就航を果たしたYS-11は、その後海外への輸出も行われるようになる。残念ながら当時のYS-11の写真は持ち合わせていないので不明だが、知りうる限りでは、韓国、台湾、フィリピン、米国、ブラジル、ギリシャなどに輸出されている。1960年代の中盤から後半にかけては、まだ航空輸送時代も本格的ではなく、国内線でもジェット機、それも今では「小さい」といわれてしまうナローボディ機が、東京〜札幌や東京〜大阪などの幹線に就航、YS-11は、今であればボーイング767クラスが就航しているような路線を飛んでいたのである。

国内亜幹線を追われたYS-11は、ローカル線主体の運航へと変わって行った。日本エアシステムは、YS-11路線を全て子会社の日本エアコミューターへと移管し、現在も9機のYS-11が活躍を続けている。写真のJA8788は、民間機として航空会社に納入された最後のYS-11である。(日本エアコミューター、YS-11A-500、JA8788、2002年5月、鹿児島空港)

しかし、1970年代から、地方空港のジェット化と、国内線機材の大型化が図られることになる。日本航空が1970年代前半からボーイング747を、1970年代中盤からDC-10を国内線に投入し、さらに全日空はトライスターを1970年代中盤から投入している。これにより、主要路線の機材が大型化されることになる。さらに地方空港の滑走路延長などによるジェット化が進み、YS-11はプロペラ機だけが就航できる地方空港と羽田を結ぶ路線や、地方空港間の需要の小さい路線を中心に細々と活躍することになる。さらに1974年、YS-11は180機あまりが生産されただけで、生産中止となった。日本の航空会社向けでは、東亜国内航空(当時)に納入されたJA8788が最後となった。このJA8788は、今でも日本エアコミューターのフライトで活躍している、生き残りの1機である。
 

生産停止と、大型機の投入、地方空港のジェット化が行われる中でも、国内航空需要の拡大により、YS-11はまだ活躍を続けることになる。しかし、輸出されたYS-11の中には、海外での活躍を終えて、日本に「里帰り」する機材も登場した。全日空、日本エアシステムは、国内ローカル線の拡大によるYS-11不足を、こうした里帰り機でまかなっていた。中には貨客混載型として生産された機体も存在した。里帰りYS-11は、比較的早いうちに引退してしまったが、ブラジルのクルゼイロ航空から里帰りしたJA8805、JA8809の2機は、つい最近まで日本エアコミューターで活躍していた他、インドネシアから里帰りしたJA8768は、今もなお、日本エアコミューターのYS-11路線で活躍を続けている。

1980年代までは活躍の場を失うことのなかったYS-11だったが、1980年代後半、ジェット化されていなかった岡山、高松の2空港が相次いでジェット化することで、いよいよ活躍の場が狭められるようになってきた。この頃から、余剰機材が米国などに売却されるようになっていた。しかし、1990年代前半は、大阪発着のローカル線を中心に、相当数のYS-11がまだ活躍していた。地方空港がジェット化された後でも、伊丹空港の騒音問題で、YS-11に機材限定がかかる形でジェット機の就航が制限されていたためである。しかし、全日空グループがA320を、日本エアシステムがMD-87を低騒音機として導入すると、これらの機材へのB滑走路使用が許可されるようになる。そして、瀬戸大橋の開通で、大阪〜四国路線の乗客が減少したことも、YS-11には命取りとなった。

コックピットの後ろに貨物ドアのある貨客混載型のYS-11は、後部から搭乗し、前方には客室用のドアがなかった。(写真:東亜国内航空、YS-11-600、JA8806、1988年、旧高松空港)

 

さらにエアーニッポンは1995年からB737-500を導入開始する。これにより、大阪発着の高知、高松などの路線がB737に機材が変わり、1996年に完全撤退、福岡発着の対馬、五島福江などの路線も、90年代後半に撤退、エアーニッポンのフリートとして残るYS-11は、JA8722、JA8727、JA8729、JA8735、JA8744、JA8761、JA8772の7機を残すのみ、路線も北海道内路線と、羽田〜伊豆大島、三宅島だけになっていた。
日本エアシステムのYS-11は、大阪発着を中心に残されていたが、最後までジェット化の遅れていた南紀白浜空港がジェット化されると、羽田発着のYS-11路線が消滅、そして大阪発着のYS-11路線も、全て1994年までに日本エアコミューターに移管され、日本エアシステムのフリートからYS-11は姿を消した。

退役したYS-11は、博物館などで展示される機材も存在する。写真は但馬空港に展示されている元エアーニッポンのYS-11.他に佐賀空港、高松空港近くのさぬきこどもの国、および所沢、三沢、各務ヶ原、成田にある航空博物館や、青森のみちのく北方漁船博物館などに保存されている。(写真:エアーニッポン、YS-11A-200、JA8734、2005年、コウノトリ但馬空港)

2001年1月、羽田〜大島線の機材がYS-11からDHC-8に変更になり、羽田発着定期便のYS-11は姿を消した。前年に丘珠空港でオーバーラン事故によりJA8727が登録抹消となったため、残り6機のYS-11は、全て拠点を丘珠に移すことになった。ただし、重整備は羽田で行われていたため、時折羽田へは飛来していた。
2002年4月、DHC-8を使ったエアーニッポンネットワークの就航により、北海道に残るエアーニッポンのYS-11は、わずかに4機になった。その後、DHC-8の4号機、5号機就航で、2003年1月にはJA8744、JA8761、JA8772の3機まで減少、そして2003年5月には、長いことベースとしていた丘珠空港発着のYS-11路線が消滅した。そして、エアーニッポンのフリートから2003年8月31日、最後のYS-11、JA8772が退役した。
一方で、日本エアコミューターのYS-11も、2003年2月にDHC-8-400が投入されることになり、まず2002年11月、JA8776が退役し、三沢の航空博物館へ、続いて2003年夏にJA8805、JA8809が退役。その後、順次退役が進み、2005年末の時点で4機、2006年3月には日本の航空会社向けに最後に納入されたJA8788が退役することが決まっており、2006年度まで引き継がれるYS-11は、JA8717、JA8766、JA8768の3機だけになる。完全な引退は2006年末までに行われる予定である。
 

こうして日本の空から姿を消していくYS-11だが、すでに1990年代中盤に引退した機体は、フィリピンに渡り、アジアンスピリットで活躍を続けている。マニラからフィリピン各地への国内線に使用されている。さらに2005年になってJA8763、JA8771の元日本エアコミューター所属機もフィリピンに渡っており、しばらくは元気に飛んでくれそうな感じである。
一方、エアーニッポンを2002年から2003年にかけて退役した機体は、タイのプーケット航空に売却され、タイ国内線で活躍していたが、2005年9月に事故を起こしてしまい、2005年12月現在、運航を停止している。
そして、日本の空からYS-11が完全に消えてしまう訳ではない。自衛隊、国土交通省航空局、そして海上保安庁のYS-11が、まだしばらくは活躍する予定である。国産唯一の旅客機が、いつまでも元気に空を飛び続けることを願って止まない。

航空自衛隊の美保基地所属のYS-11輸送機。こちらは後継機の話もないので、当分は大丈夫そうだが・・・(写真:航空自衛隊YS-11、2003年、航空自衛隊美保基地)

 



参考資料:
NHK プロジェクトX「翼はよみがえった」前編・後編
コミック版プロジェクトX 挑戦者たち 翼はよみがえった 宙出版




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